・渋川寄居城は元亀3年に武田信玄に従った真田幸隆が白井城侵攻の際に拠点の一つとする為に渋川地域に割拠する地侍達の協力を得て築いたとされます。
戦国時代に関東管領上杉家が衰退し越後の上杉謙信を頼るようになると、白井城の城主白井長尾氏も謙信に従った為、白井城は謙信の関東侵攻の一大拠点となっていました。
永禄8年又は永禄10年に武田方の真田幸隆が白井城に侵攻し、その攻略に成功すると、長尾憲景は越後上杉家と友好関係にあった常陸佐竹氏を頼り常陸に落ち延びています。
永禄12年に甲相駿同盟が崩壊した事を受け、北条氏政が上杉謙信と同盟し、当地から武田勢を一掃すると、憲景は白井城主に復権を果たしています。
しかし、永禄13年に再び真田幸隆が白井城を攻め、憲景は開城に応じています。
その後、憲景が白井城を奪還したと見られ、元亀3年に再度真田幸隆の侵攻を受け、白井城は落城しています。
渋川寄居城はそのような経緯の中で築城され、その後も数度に渡り白井城を巡る攻防戦が繰り広げられています。
特に、白井城を失った長尾憲景は支城である八崎城に立て籠り、武田方の隙を突き渋川寄居城に攻め込み、武田方から首級40を挙げ勝利を勝ち取っています。
その後、渋川寄居城がどうなったかは判りませんが、白井長尾氏は武田氏、小田原北条氏、滝川一益が上野国から撤兵すると、再び北条氏に従い、白井城を奪還したものの、天正18年に小田原の役に北条方として参戦し敗北した事で没落し、白井城に対して攻防両面で戦略的な価値を失った事から間もなく廃城になったと思われます。
渋川寄居城は長辺180m、短辺150m程の平城で、主郭と北東の一段低い二之郭、南側の外郭で構成され南側と北側に流れる小川を天然の外堀に見立て、それ以外は堀切や空堀、土塁で囲っていたようです。
現在は主郭の多くが正蓮寺の境内、二之郭が住宅街として利用され、境内には堀切や井戸、土居の一部が残されているようです。
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