・青柳城は文治4年に佐貫広綱が赤岩から当地に移り住んだ際に築かれたのが始まりとされます。
当初は居館程度の規模だったようですが、8代後の赤井照光までに次第に拡張整備され城郭と呼ぶに相応しい規模となっています。
当初の佐貫荘は佐貫氏の本貫地でしたが、室町時代に入ると庶流である舞木氏の支配下に入り、赤井氏はその被官という立場だったようで、永享10年に発生した永享の乱の際に、舞木持広の寄騎(与力)として赤井若狭守の名前が見られます。
15世紀中頃になると資料から舞木氏の名が消え、赤井氏の名が目立つようになった事から、この頃に下克上が発生し赤井氏が佐貫荘の最大勢力になった事が窺えます。
この事から、青柳城は永享年間に赤井勝元が築いたとも云われています。
応仁2年には赤井正光が領内に境内を構えている茂林寺に対して寺領の寄進と堂宇の再建が行われている事からこの頃には佐貫荘を完全に掌握し領主として社寺の保護を行ったと思われます。
一方で、館林城の築城も本格化したようで、文明3年に発生した享徳の乱の際、古河公方足利氏に与した高師久が赤井文六と文三が護る立林(館林)に籠城し、関東管領上杉家方に攻められたと記録されています。
その後、通説では赤井氏は館林城を本城としたとされますが、資料的価値が低いとされる「館林記」等によると本城は引き続き青柳城とし、弘治2年に赤井照康(勝光)が館林城を築いた後に本城を遷し、跡を継いだ子供の赤井文六照景の代に上杉謙信に攻められ赤井家は没落したと記されています。
青柳城は主郭部が南北約110m、東西約125m、北西部に設けられた外郭は東西約380m、南北約250m規模だったとされ、主郭には東と北、南西の三か所に虎口が設けられていたようです。
現在、青柳城の城跡は宅地と畑地に整備された事で、土塁や堀等の目立った遺構は失われており、南側の小川を利用した堀の跡が当時の雰囲気を残しています。
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